だいたい、今になって個人サイトを持つひとって最初の方の記事で「Twitterをやめた理由」について語りますよね。私も5年だったか7年だったか、かなり長いことTwitterをやっていた身ですから言いたいこと、山ほどあります。
基本的な私の思想が共有至上主義批判ですので、その時点で不適合の民であることは明らかなものですが、それでも続けていたのは私が嫌悪した共有を求めてのこと。どれほどあがこうが人は共有から逃れられん。このブログがそれを証明しているではないか!(CV大塚明夫)
共有を捨てきれずみんなと一緒に大きな何かに群がるドブニンゲンの一匹と自覚しつつも、そこからなんとか脱却したい。色々と試しましたが、また別の機会に話します。
さて、何とか自分だけの世界めいた空間を得てなのですが、ここで諸々を語るリスクについて書いておきたい。自戒の面も含め。
これは常々悩んでいることですが、人間にはインターネット上でその地の風土に合わせて進化を遂げてしまう性質があると思うんですね。分かりやすいところでは言葉遣い。5ch(旧2ch)なんかでも掲示板ごとに一人称が俺だったりワイだったり、それも、そのひとがそこだけの住民であるというわけでなく、同一人物が使い分けている。
ニコニコで動画を投稿していたひとがYouTubeに移った途端に字幕やズームアップなどの編集を使い始めたりというのも、マーケティング面以上に根深く在るのが、この「風土に合わせた進化」によるものなのかな、と考えます。
して、この個人サイトのブログという場は全くそういう風土が根付いていない(私が知らないだけでwixで作成したウェブ上での暗黙のルールがあるのかもしれませんが)、むしろこれから自分で作ってしまえるものだというのが、ま自由でもあり、恐ろしくもある。
ウェブ上で「痛々しい」と感じるものってあるじゃないですか、ああいうのってSNSでは(表面上は)あまり見かけないものですが、個人ブログなどを巡っているとばかすか出てくるんですね。
SNS上でも、一般と違う文化圏で、少数の身内で独自の文化を築きあげてしまって、それが傍目に痛々しく映り、大衆の目に留まってはぶっ叩かれたり戦が起きたりするでしょう。だから周りと同化して目を付けられない様にするひとも多いでしょう。私とてそこから脱却したいと思いつつもどこかかんか同化して身を守っていました。
これがです。個人ブログとなると周りの目が限定され過ぎて、自らの痛々しさに気付かないまま突っ走ってしまいかねないのです。手遅れになったところで、たまたま大衆のアグレッシブな層に目を付けられたら、その後の処遇は火を見るよりも明らか。
このブログを立てるちょっと前ぐらいにも、そういった身内ノリを晒されて活動を自主停止された方を見てしまったので、あー、気を付けないとなーと。
特に、自分の感情の中でいかに合理的であれ倫理から逸脱したものであるとか、狭い視野での知見を摂理かの様に語ったりであるとか、言語同断なんでしょう。
こんな場でも、より外の風土は我々を進化させようと目論んでいる。
……こうやってポエットに〆るのも傍目痛々しく見える可能性は高いですよね。痛々しさとエンターテイメント性の話はまた次の記事で。
#雑記
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