今回はずーっと書こうと思っていた、映画「ドラゴンクエストⅤユア・ストーリー」と、主にそれを批判する意見についての記事です。公開からだいぶ時間も経ったことですし、ネタバレ含みますが、見た経験、見る予定の有無にかかわらず、別に読んでも支障はないんじゃないかなと思います。
むしろ、見たことがないけど悪いイメージがある、という方には是非読んで欲しいですね。
経緯
まず立場をお話します。私が初めてエンディングに辿り着けたゲームというのが恐らくドラクエ5のSFC版(ヨッシーアイランドが先だったかもしんないけど)でして、思い入れは深いです。序盤から一緒に仲間として着いて来てくれたのに、グランバニアあたりで二軍落ちしたニトロくん。それから引き継ぎで一軍入りした元二軍のブラウン。くっそ貧弱な回復役のメッキー。アタッカーのくせに最後は賢者の石使ってばっかのゴレムス。
当時は本当に子供でしたから、我が子に王位を継がせたいがためにヘンリー暗殺を企てる太后の思惑などを始め、ストーリーはあまり理解していなかったように思います。(後にPS2版をプレイして、ようやく理解が深まりましたね)
それで、映画化という話を聞いて公開楽しみにしていましたが公開当日からTwitter大荒れで、そこまでネタバレ対策はしていなかったのである程度の前情報は入ってくる形になりました。それがだいたい以下の3つです。
・はしょりすぎ
・オチが酷いメタ系
・この映画はゲーム愛を否定している
かなり身構えての視聴となりました。ひとつひとつについて視聴後の所感を書いていきますね。
はしょりすぎ?
これについては概ね同意です。ただ、小説のアニメ化・漫画のゲーム化・ゲームの映画化などメディアを跨いで尺を縮めざるを得なかったであろう作品は今までに何度も見てきましたし、思い入れのあるシーンや台詞がカットされていても「しゃあない」と思う頭が出来上がってしまっているので、さほど怒りはなかったです。
結婚イベントとブオーン戦を一緒くたにしたりとか、縮めつつも見所を残す工夫はされていましたし、むしろそっちを上手くできてる方かなぁと感じたぐらいでした。実際のゲーム画面を使ったダイジェスト部分はかなりダサく感じましたけど。
オチが酷いメタ系?
身構えていた所為か、さほど酷くは感じませんでした。どのぐらい身構えていたかというと、エンディング後に画面が突然途切れて、カップ麺の殻やら脱ぎっぱなしの靴下やらが散乱した部屋に閉じこもる臭そうなオッサンがスーパーファミコンの前に座り込んでいる場面が実写で映される……みたいなのを想像していたレベルです。
実際には「これはVRのゲームでしたぁ!」という今風ながらありきたりなメタだったので、ダサい以外の感情は特に湧きませんでしたね。
「あの壮絶な人生を体験してメンタル大丈夫なわけあるか」とか「臨場感の為にプレイヤーの記憶一時的に消すとか倫理的にどうなんだ」とか「えっ、今日はビアンカとの子作りもVR体験してもいいのか!」とか、色々と突っ込みどころもありますが、まぁ野暮の範囲かなと思います。
そして、この事実を「ゲーム外から送り込まれたプレイ妨害ウイルス」に告げられるという下りがラストにあるんですが、このシーンが本題となります。
この映画はゲーム愛を否定している?
私はそうは感じませんでした。というか、そう感じる方がどうかしてると思う。ラストのこのウイルスはゲームプレイヤーに妨害行為をしているんですが、そのウイルス開発者の動機は「ゲームに没頭する人間が嫌い」「こいつらに現実を突きつけたい」「大人になれゲーオタどもが!」という単なるゲームアンチなんですよね。
それに対し、自分がプレイヤーであることを自覚した主人公は、「ゲームをプレイして感じた思い出は本物だ」「それを否定するな!」と、自身が昔プレイしたSFC版ドラクエ5の思い出を想起しながら、その思いを吐き出します。そうして山寺宏一の助けもあって、ウイルスを撃退するわけです。また、このシーンのBGMが「この道我が旅」なんですよね。
身構えもあって、このシーンにそんなに嫌悪感は抱きませんでした。どちらの主張もすごくありきたりな言葉ばかりで、私の好みではないのですが、でもしっかり、現実からの否定だけでなく、それに対するプレイヤーの気持ちというところまで描写しているわけです。
あれはやはりプレイヤーのゲームを愛する気持ち、というところに着眼すべきシーンだと思うんですよ。
ところが、世間での風評を見るになぜか「ウイルスの主張=監督がこの作品で伝えたかった事」とされ、「この映画はゲーム愛を否定している」と批判されがちなようです。
この批判は私からすると酷く捻じ曲がったものに感じますので、捻じ曲がっているものは捻じ曲がっているものとして、なぜこうも皆が口々に捻じ曲がっているのかという視点で考察していきます。
何故捻じ曲がった批判が横行しているか
・サブカル批判に敏感な世間
この映画、公開が2019年夏なんですが、2017年ぐらいから今に至るまで、差別問題などがサブカルの表現についても手を伸ばして来ている世界的な風潮が続いていますから、そんな中「ゲームを批判する意見」が耳に入っただけで臨戦態勢に入ってしまうのも頷けます。
ただ、サブカル界隈全体が、「ある種の正当性が主張された批判」に自分たちの趣味を脅かされることについて酷くピリピリしているということも、また一つ問題な気がします。わざわざ敵をでっちあげて吊るしあげてまで正当性を主張したり、規則を変えようとしたり作ろうとしたり、という歪な構図がお互い様になりつつあります。
・分かりやすい批判点が欲しかった
私もこの作品を総評すると良い作品とは判断できません。ただ、何が悪かったと言えば自分の好みじゃあないに尽きるんですよね。言い換えれば、悪い作品であるとする決定打が無いんですよ。
それでも好き嫌いではなく良い悪いの次元で批判したいひとたちが、捻じ曲がった解釈を広めてでもこの映画を「悪いもの」にしたかったのかなぁ、と考えています。
・インターネットの病気
Twitterを始めインターネット上では共有を主眼に置くあまり、自分が好きなものはみんな好きであれ、自分が嫌いなものはみんな嫌いであれ、みたいな考えに陥りがちに感じます。
「嫌いなもの」を「悪いもの」に置き換えて批判したがるのは、それが「みんな嫌い」にならざるを得なくする簡単な方法だからでしょう。
これら三点を踏まえ、ユア・ストーリーがこうまで捻じ曲がった批判をされているのは、まず嫌われ、それが「インターネットの病気」により「分かりやすい批判点が欲しい」ので「サブカル批判に敏感な世間」を利用して、この“嫌いな作品”を“世間的な悪”とすることで、みんなの嫌いを共有しよう、という意見が大勢の中で一致した結果なのではないかと思います。
そして恐ろしいのがおそらくこうした流れに自身が流されていることにまったく自覚のないひとがいるのだろうということです。
もちろんこれは「好きなもの」を「良いもの」と捻じ曲げるファンにも言えることです。
私はユア・ストーリーという作品を擁護したいわけでも、逆張りをして悦に入ろうとしているわけでもありません。ただ、多くのひとが共有を主眼におくために一対一で作品と向き合う機会が奪われつつあるのではないだろうか、という危機感を強く感じたので、どうか一度考え直して欲しいんです。お願いします。最初の「好き嫌い」に立ち戻ってみてください。
余談:一対一でユア・ストーリーと向き合う
この流れから脱却するべく、自分自身の視点からユア・ストーリーに感じたことをしっかりと言語化することが大切だと思います。私の感想を一例としてここに載せておきます。
山崎貴監督は過去に「ドラえもん」の作中の泣けるストーリーを選りすぐり詰め合わせた映画を作っています。私は山崎貴作品もドラえもんも知らないので、これについて多く語ることは出来ず乏しい論拠ではありますが、このこととユア・ストーリーの内容を照らし合わせ、成り立ちについて一つの予測が立てました。
それは、多くのドラクエ5プレイヤーから“最も印象深かった場面”を聞いて、それを繋ぎ合わせたのではないかというものです。
端折られた部分として大きいのが娘の存在です。プレイヤーの気持ちからすると無くてはならない存在ではあるものの、ゲームの大筋からしてみれば割と重要ではありませんよね。ドラクエ5について印象的だったこと、として子供のことを語るとすれば「ドラクエ5では主人公ではなく息子が勇者だったこと」とする方が大半なのではないかと思います。
同様に、ラスボスについても印象的だったと語る方は少ないでしょう。映画ではやはりゲマがかなり前面に押し出されて描写されていました。
他にもブオーン戦・ぬわー・結婚イベント、と多くのプレイヤーが「印象的だった」と語るであろうシーンは長尺を使って描写されていました。人気のある場面なのにカットされたのはレヌール城ですが、これについても最初のダイジェストでゲーム画面が使われていたあたり、娘&ミルドラースよりは惜しまれつつカットされたのでしょう。
結婚イベントについても、論争があることを知ったうえで、尺を使い過ぎずにどっち派の視聴者も納得させようという意図が見える展開でした。
つまり、「ドラクエ5をプレイして感じた感動」ではなく、「多くのひとの思い出に残っているドラクエ5」を描いたのではないかという気がするのです。
しかし思い出として語るにあたって、実際にプレイしての心の起伏を伝えるのは難しいもので。また、ひとりに深く語らせたのではなく、多くに短く語らせたのだとしたら、ああも詰め合わせ感が出てしまったのも頷けます。
監督が自身でプレイしたのかどうかは知りませんが、多くの既プレイヤーのウケを狙うあまり、ひとりひとりの思い出からはかなり逸れた内容になってしまっていたのではないかなと思います。誰か一人でプレイしたマイ・ストーリーの方が見たかったなーって。
そうして語られたドラクエ5の後で、プレイヤーがその思い出を語ってもどうにもペラいんですよね。やはりなんだか、子供のころにSFCのドラクエをプレイした思い出を持つ自分と、あの主人公の思い出が重ならないんです。なので、そこがちぐはぐなまま「大人になれ」という言葉を否定しても、どうにも子供じみて聞こえてしまうような……って。
「現実においてゲームとは何か」というのは、そういった上澄みだけ汲み取った状態で踏み込んじゃあいけないテーマなのかもしれないなと思います。
主人公が「大人になれ」を否定する理屈について、「思い出は本物」というものでしたがこれは、ゲームは子供のものということは否定せず、大人が子供に立ち返ることを美化・肯定していると受け取れるんですよね。
でも私はドラクエ5をプレイした子供の頃の自分と、現在ドラクエ5の映画を見に来ている自分とが、大人と子供という区別をされてはないと感じていました。というのも、私は映画化されたドラクエ5を見に来たのであって、子供の頃の思い出に浸りに来ているのではなかったわけですから。その点でも、主人公の主張するゲーム愛と私のゲーム愛というのが一致していない。
なのでむしろ私が非難したいのは主人公の意見がズレてることなんですよね……。私自身がSFC版をプレイした平成生まれというそこそこのレアケースというのもあるでしょうが。
私目線だと、一回り上世代のひとたち(主な視聴者層)の意見を二回り上の世代のひと(監督)が的外れに代弁しているような印象ですね。
もっと私個人のわがままで批判するとしたらもーーっといっぱい言うことあります。
まず、あのクオリティのCGでミルドラース第二形態はマジで見たかった。ウイルス出てくるのはまだ許すからその前にちらっとだけでも見せてくれ。頼む。
あとベラを出してくれ。頼む。
妖精の少女と一匹の猛獣連れて、「春を取り戻す」というなんとも可愛らしい願いのために、あの雪の降りしきる小さな島を旅する……もういいじゃんあそこだけで。いっそ妖精の国編だけに絞って映画化しないか?私が監督だったらそうする。
あと私が仲間にしたモンスターは入れといてくれ。特にニトロ。結婚前後ぐらいで成長限界が来たことに気付いて、それでも一緒にグランバニアまで来たけど、どうしても戦力的に追いつけなくて、でもその後もずっと馬車にいてくれたニトロくんのことが忘れられないんだ。あいつなしにドラクエ5は語れねぇ……。語れねぇよ……。
出来れば勇者になれなかった娘と勇者になれた息子の確執とかも描いてくれ。原作にそういう描写ないけどあの双子絶対そういうのあると思うんだ。「貴様は良い!母上の勇者の遺伝子を全て貰った……私はその搾りカスだ!!貴様に分かるか!!」みたいなやつ。
そういう賛否両論ある感じの踏み込みとかがあった方が私好みではあるんですが。
でも如何様に批判しても、尺の都合と言われてしまえばそれまでな気もします。
良いなと思った点なんですが、やっぱりCGのクオリティと、ビアンカのキャラデザがちょっとイメージと違う角度から刺さって来た感じで好きです。ゲマの声優さんもかなりハマってて好きですね。
ラストバトルでヘンリーやブオーンが助けに来る展開、これはすごく私好みなもので、主人公とヘンリーの絆という部分については原作以上に掘り下げて描いてくれていたと感じましたから、その描写あってこその展開をしっかり作ってあるし、映画ならではの演出でもあったので、尺など媒体の制約に挑むのではなく、媒体の強みや制約によって生まれたものを上手く生かすなどして、作品としてのまとまりを良くしてくれる方が、原作に忠実であることよりも好ましいと思っています。
そしてゲームアンチなウイルスくんがすごく今の鳥山明感が漂うデザインだったのも可笑しかったです。
そして最後に、ラスボス戦を前にしてプレイヤーという自覚を取り戻してしまったために本来あるべき没入感を失った状態で、それでも主人公役をエンディングまでまっとうしたラスト。主人公の表情が少し寂しげなんですが、ゲームのエンディングを見ている時のプレイヤーの寂しさを映画内で表現するにはメタ設定が必要だったかなとも感じます。ここは割と好き。
総評としては、ストーリーは杜撰!台詞はダサい!CGは凄い!
ただ、私のニトロくん然り「自分のプレイしたドラクエ5」でしか起こらなかったストーリーは各々あると思います。この映画を見て「俺のドラクエ5はこうだったんだなぁ!?」みたいな気持ちをぶつけたりして、自分はドラクエ5のどこが好きだったんだろう、と改めて考えてみるきっかけにはなると思います。
作品として好きじゃありませんし、今後もドラクエの映画化があるなら監督は違う方が良いと願いますが、この映画は見る価値が無いとは言えない、というのが結論です。
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