前回の記事は、痛々しいものへの拒絶反応について書きまして、書いている途中で苛ましくなって結論が出ずに終わったような恰好でしたね。
ああいった心の動きってよくありません?それがこの記事に題した「可哀想と愛おしい」なのです。そして私の心の最も厄介な病であるとも思います。
「可哀想」と「愛おしい」
屍鬼という小説で沙子というひとが似たようなテーマを論じていましたので読んで欲しいんですが、それとはまた違った視点の話になるかと思いますので既読の方は忘れてください。
私はお菓子のパッケージに描かれたキャラクターを開封時に破ることが出来ません。極力そこを避けて切り取ります。生き物の形をした食べ物を食べるのがとても苦手です。たい焼きは死体のデザインだと思うので普通に食べられます。
では私は可愛いものが大好きなのか、というと断じてそうでは無いように思います。旅行先で買ったイルカのぬいぐるみや友人に貰ったフクロウの絵のマグカップなど、最初はよく見て触れて愛でていたものが、いずれ棚の奥に追いやられていたり、そこまで意識せずに使うようになっていたり、そんなことしょっちゅうです。
ですが、それがいざ捨てるとなると、捨てられないのです。
子供のころ、母が平安時代の男性貴族の人形を作ろうとしたことがあり、布目の方向を間違えて、綿を詰めた時点で頭が横に伸びてしまい、目と眉以外には片耳と半端な髪だけが付けられた歪な生首は、そのまま完成を待たず失敗作として捨てられる予定でした。
私はそれを「握り心地が好い」「だから捨てないでくれ」と嘆願し、母に髪ともう片耳も付けて貰いました。握り心地は悪くなってしまいましたが、そんなことはどうだって良かったのです。
その平安貴族男性の御首も、今は神棚に飾られてはいますが、昔のように話しかけたり頬ずりをしたりといったことはめっきりなくなりました。(これは加齢もあるでしょうが)
愛されるべくして生まれたものから、愛される機会を永久に奪うこと。これが私の中で引っかかっているのだと最近になってようやく理解しました。愛されるべくして生まれたのであれば、そこには利便性も、実際のところ愛嬌でさえ関係無いのです。
これは決して優しさではないんです。保身なんです。
「愛される機会が永久に失われる」という現実を見てしまえば、私は、「そんなことが起こり得る世界」で生きることになるのです。実存主義的な考えで、目に見える所でそういったことが起きさえしなければ、私は「生きてさえいれば誰かに愛してもらえる」世界で生きることが出来ます。私は、この世界をただただ守りたいだけ。それだけなんです。
ですからこれと同じ理由で、人気の無い作品が好きになったり、指示されない理論を支持したりといった動きを多くしてしまうのかなと思います。何らかのきっかけで、自分が愛さなくても良いのだと判断すれば、すぐに飽きて見捨ててしまう。本当は自分が信じたいことを信じていたいだけの想いですからね。
文字ばっかりの記事はこれでおしめーだぁ。これからは描いた絵や漫画のこととか、読んだ本のことについてでも話そうかなと思います。さて。
#雑記
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